育った環境を教えてください

出身は名古屋です。

実家が薬局を経営しておりましたので、私も将来は薬剤師になるつもりでしたが、くすり屋の大型チェーン店が広まっていた関係で、医師を目指すほうがいいだろうという雰囲気になりました。

父は、将来お年寄りが増えるだろうから、老年科で博士号をとるとよいと進めてくれました。

今から30年以上前の話です。父は医学部を受験していたので、息子に夢を託したかったのかもしれません。

上には2人の姉がいて、年も離れておりましたので、よく甘えていましたね。父は仕事熱心でしたので母は従業員のような感じでした。

最盛期には、大みそかまで店を開けており、1月2日には新年をスタートさせていました。

定休日はありませんでしたね。

印象に残っているエピソードについて教えてください

印象に残っているのは、私が生まれたときのエピソードです。

地元の学区内に、同じ助産院で同じ日に生まれた女の子がいたのですが、彼女は元気に泣いていたのに、私はほとんど泣かなかったそうです。

また、名前をつける際に父親の名前に「彦」がついていたので、その長男ということで「彦一」にしようと提案されたのですが、家政婦さんがそれでは可哀そうということで「和彦」という名前がつけられました。

それから中学では、優秀な生徒が集まる地域におりましたので、なかなか成績が上がらず、「一彦」にしてくれれば1番になったのにとぼやいたこともありました。

結局、学校群制()の高校受験で遠方の高校に回されたために、父が校長と大喧嘩して私立の高校に行き、成績は常にトップでした。

)いくつかの学校で「群れ」を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法。

学生時代に熱中していたことはありますか?

主に音楽活動に熱中しておりました。

中学の時に音楽の成績が「2」で、今でも音符は読めないのですが、姉が教えてくれた「禁じられた遊び」のクラシックギターで「4」になり、東京から引っ越してきた友人のH君に教えてもらったドラムの基本リズムを武器に、60歳でバンドを再結成するまでドラムをやっていました。

また、高校の頃は特待生の副賞でドラムを買い、MAYAというロックバンドで活動していました。

子供の頃描いていた将来の夢は何でしたか?また、その理由を教えてください

小学校の時は、消防団長で勲章をもらった伯父の影響で消防士になりたかったです。

人を救うことにやりがいを感じられると思ったので。

中学の時は、漫画家とか映画監督にあこがれていましたが、薬剤師をしていた叔父が2人もおりましたので、心のどこかで薬剤師になるのだろうなと思っていました。

御院のスローガンとして、「安らぎ、信頼、希望」を掲げられていると思いますが、そのスローガンの為に、直近で取り組んでいる事などありましたら、教えてください

将来の自分のイメージを組み立てるために、よく店先にいて父がどのような接客をしているのかを見ていました。

すると父は、相手がお年寄りになると急に名古屋弁になるのです。ああ、これが相手に合わせるということなのだなと思いました。

9年前に開業しましたが、いまでも活かせていますね。

例えば、大学が関西でしたから関西からきた患者さんには関西弁、名古屋の方なら名古屋弁で対応しています。そういう接し方で先方が「安らぎ」を感じてくれるならいくらでも努力します。

家族からは、親しみがあることと下品は違うと注意されますが、本当に深刻なご病状で遠方から来られるのですから、診察室は一点の曇りもなく、晴れやかで希望がみちた外来にしたいと思うのです。

「来てよかった」と言 っていただけるのが私の勲章です。治療方針で患者様がお悩みになるときは、私は「自分の親だったらこうします」という言い方をするようにしています。

つまり、真剣に考えているということを分かっていただいて「信頼」を得たいのです。認知症は完治しないので、「絶対治ります」とは言ってはいけないのでしょうけれど、私は「絶対よくなろうよ」と言います。

私は認知症、発達障害の最後の砦だと認識しています。あらゆる治療で改善できない方でもなんとかアイデアを絞り出して、逆立ちしてでも治したいです。

「希望」をもつことで、海馬周辺の神経細胞はそのまま育ってゆくのです。

組織概要

クリニック名
名古屋フォレストクリニック(公式サイト)
所在地
愛知県名古屋市緑区南大高三丁目1305番地
院長
河野和彦